(ごぶんしょう)
御文章(ごぶんしょう)

末代無智章(まつだいむちしょう)

末代無智(まつだいむち)の・在家止住(ざいけしじゅう)の男女(なんにょ)たらんともがらは、こころをひとつにして・阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、さらに余(よ)のかたへこころをふらず・一心一向(いっしんいっこう)に仏(ぶつ)たすけたまえともうさん衆生(しゅじょう)をば、たとい罪業(ざいごう)は深重(じんじゅう)なりとも・かならず弥陀如来(みだにょらい)はすくいましますべし、これすなはち・第十八(だいじゅうはち)の念仏往生(ねんぶつおうじょう)の誓願(せいがん)のこころなり、かくのごとく決定(けつじょう)してのうえには・ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)すべきものなり

                        あなかしこ あなかしこ

現代語訳

末(まつ)の世(よ)の、無智(むち)にして世俗(せぞく)の生活(せいかつ)に明(あ)け暮(く)れする私(わたし)たちは、男(おとこ)でも女(おんな)でも、一心(いっしん)に弥陀如来(みだにょらい)を信(しん)じておまかせし、全(まったく)く他(た)の教(おし)えに心(こころ)を奪(うば)われることなく、一心・一向(いっしんいっこう)に「如来(にょらい)よ、たすけたまえ(仰せに従います)」という人(ひと)は、たとえその罪業(ざいごう)が罪深(つみぶかい)いものであっても、必(かなら)ず弥陀如来(みだにょらい)は救(すく)いとって下(くだ)さるのである。これこそ、弥陀如来(みだにょらい)の第十八願(だいじゅうはちがん)、「念仏(ねんぶつ)によって浄土(じょうど)に往生(おうじょう)する」と誓(ちか)われた本願(ほんがん)の真意(しんい)である。

さて、このようにして信心(しんじん)が決定(けつじょう)し、疑(うたが)いの心(こころ)がなくなったうえには、仏(ほとけ)となる身(み)に約束(やくそく)されたのであるから、寝(ね)てもさめても命(いのち)のあらん限(かぎ)りは、仏恩(ぶっとん)に報(むく)いる念仏(ねんぶつ)を称(とな)えて、日(ひ)を送(おく)らせて頂(いただ)くばかりである。






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