(ごぶんしょう)
御文章(ごぶんしょう)

聖人一流章(しょうにんいちりゅうしょう)

聖人一流(しょうにんいちしゅう)の御勧化(ごかんけ)のおもむきは・信心(しんじん)をもて本(ほん)とせられ候(そうろう)

そのゆえは・もろもろの雑行(ぞうぎょう)をなげすてて・一心(いっしん)弥陀(みだ)に帰命(きみょう)すれば、

不可思議(ふかしぎ)の願力(がんりき)として・仏(ぶつ)のかたより往生(おうじょう)は治定(じじょう)せしめたもう、

そのくらいを一念発起入正定之聚(いちねんほっき にゅうしょうじょう しじゅ)とも釈(しゃく)し、

そのうえの称名念仏(しょうみょうねんぶつ)は・如来(にょらい)わが往生(おうじょう)を定(さだ)めたまいし、

御恩報尽(ごおんほうじん)の念仏(ねんぶつ)と・こころうべきなり、

                        あなかしこ あなかしこ

現代語訳

親鸞聖人が浄土真宗をお開きになり、ひとえにお勧めになった教えの趣旨は、「信心」が根本であるとされたことである。

そのわけは、私たちがもろもろの計らいをまじえた自力の修行をすべてなげ捨てて、一心に弥陀如来に帰依していくならば、私たちの思慮を超えた如来の本願力によって、清浄・真実の世界に生まれることを確定させて下さったのである。

この境地について、曇鸞大師は、「一念発起入正定之聚」(まことの信心がおこるとき、次生に必ず悟りを開く身に確定した人々の仲間に入る)と解釈しておられる。

このように信心を得たのちにおいて、「南無阿弥陀仏」と称えることは、弥陀如来が私の浄土往生を定めて下さった御恩に感謝する念仏であると考えて、一生の間称えさせて頂くものと心得るべきである。






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